■天下五剣とは?

童子切安綱、三日月宗近、大典太光世、鬼丸国綱、数珠丸恒次。
この五振りは天下五剣と称され、それぞれに非常に面白い逸話がある。
刀剣自身もすばらしい一品ですが、この逸話(史実か作り話かは別として)がこれら五振りを天下五剣と言わしめている。
童子切安綱 -ドウジギリヤスツナ-
天下五剣の中で『鬼を斬った』刀は二振り。童子切安綱鬼丸国綱の二振り。
童子切安綱の物々しい名前の由来はそのものずばり、酒呑童子なる鬼(山賊)を源氏の大将、源頼光がこの太刀を使い退治したことからつけられた。 おそらく多分にフィクションを含んだこの話だが、それでも『童子切』と呼ばれ続けたのは、この太刀が持つ見事な迫力の為だろう。
ちなみにこの童子切安綱、過去に試し斬りされたことがあるのだが、そのときは六つ胴の切れ味を誇ったらしい。
鬼退治という話は数多くのものが存在し、この童子切安綱も、鬼丸国綱、鬼切(鬼切丸)とよくご認識されている。
安綱とは刀工の名前。かれは名刀工であり、この童子切安綱は彼の最高傑作といわれている一本で、豊臣秀吉、徳川家康、家忠と受け継がれ、現在でも東京国立博物館で眠っている。
鬼丸国綱 -オニマルクニツナ-
さて、もう一振りの鬼を斬った刀、鬼丸国綱。こちらで有名な話はこの刀の持ち主だった北条時頼が病に倒れたときの話。
天下を平定した鎌倉幕府。その執権であった時頼はあるときから夢に鬼が出てくるようになり、病に倒れる。 いろいろ手を尽くして鬼を払おうとするがうまくいかず、逆にひどくなる一方だった。 そんなある夜、時頼の刀(つまり後の鬼丸国綱)が夢に老人の姿で出てきてこう言った。
「わが身が汚れている。このままでは汝を救うことができない」と。
翌日、刀を清めさせ、抜き身で部屋に立てかけておいた刀はひとりでに倒れた。そのとき、この刀は部屋にあった火鉢を支えている小鬼の像の首を落としたのだ。
それ以来、時頼の病気は快方に向かい彼はこの太刀を鬼丸と名付けた。
実はこのとき与えられた『鬼丸』の名前が曲者で、鬼丸と名付けられた刀は何振りか有り、 また渡辺綱が鬼の腕を切り落とした鬼切(髭切)も鬼丸と呼ばれることがあり、非常にわかりにくい。 さらにはこの鬼丸国綱にも鬼の腕を切り落としたという逸話があるため混乱に拍車がかかっている。
大典太光世 -オオデンタミツヨ-
前田利家が豊臣秀吉から譲り受けた名刀、大典太光世
利家がこの刀を譲られた時の物語は主に二種類ある。
一つ目の説は豊臣秀吉が伏見城に宿泊したときである。前田利家たちが話をしていると誰かが怪談話を始めた。
「千畳敷の間の廊下を歩いていると刀の鞘をつかまれて進めなくなる。」
利家はその話を笑い飛ばし、自分がいって確かめると言い出した。その証拠に廊下の端に他の大名の扇子を置いてくると話が決まったところで利家は秀吉に呼び出される。 その話を聞いた秀吉は利家の勇気に感服し大典太を持たせたのである。
利家は難なく千畳敷の間の廊下を渡りきり、証拠の扇子を置いた。こうしてこの刀は前田利家のものとなった・・・・
もうひとつの話は前田利家の娘が病をわずらったときの話。
この病気が一向に回復せず、困り果てた利家は秀吉より大典太光世を借り受ける。名剣の力を借りようという考えからだった。
刀を枕元に置かれた娘は数日後に回復し、喜んだ利家はこの名剣を秀吉に返すが、娘の病が再発、利家がまた刀を借りるということを繰り返し、ついに三度目、 この刀は利家に譲られたのだ。(2回という説もある)
・・・以上がこの名刀の逸話である。管理人は一つ目の話のほうが好きである。
ちなみにこの大典太光世、童子切安綱同様、過去に試し切りされており、二つの胴体を切り、三つ目の体の背骨に食い込んだ。この時、この刀が作られてから700年。恐ろしい切れ味である。
三日月宗近・数珠丸常次
ただいま製作中。気長にお待ちください。

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