■正宗と村正
村正の正宗弟子説
『日本刀』といわれ、まず思いつく刀はこの二振りではないだろうか?
知らぬ人はいないほど有名、海外でもその名をとどろかしている
正宗。
徳川家を祟った妖刀として知られる
村正。
実はこれらの名前はただひとつの刀を指す名前ではない。これらの刀を作った刀工の名前、そして彼らの打った刀の総称なのだ。
どちらも数多く打たれており現存するものもある。(正宗は短刀しか残っていない)
さて、なぜこの二振りが聖と邪に例えられるのか。それはこれらの刀を作った刀工、正宗と村正が師弟関係にあったという逸話からである。
刀匠正宗は諸国を渡り歩き、刀鍛冶の修行をしていた。正宗にからむ逸話のほとんどはこのときに作られたらしい。
ある村に逗留した正宗は弟子を取った。これが刀匠の村正だった。
村正の腕は良かったのだが、正宗は秘伝である刀を冷却する時の湯加減を教えなかった。結局正宗は再び旅立つことになり、旅の準備を始めた。
これを悲観した村正は湯加減を知る為に正宗が用意した湯船に手をつけた。
これを知った正宗は怒り、村正の手を叩き切ってしまった。(熱した火箸押し付けたという説もある)
こうして正宗は旅立ち、村正は片手を失ったが秘伝の湯加減を知り、正宗に迫る名刀を作り出したというものである。
以上が結構知られている逸話であるが、実はこの話、全くの迷信であるとされている。理由は簡単でこれら二人の刀工は生きた時代が違うのだ。
正宗は13〜14世紀、村正は15〜16世紀に生きたとされている。
妖刀にされた村正
実際
村正はよく切れたらしい。刃文は大きく波打ち、表と裏の刃文をあわさっている刀は見た目だけでも良く切れる印象を与えたようだ。
この切れ味が
村正を『妖刀』としていってしまったのだ。
村正が妖刀にされた背景には徳川家康が家中の
村正を廃棄させたことによる。
徳川家と
村正は相性が非常に悪かった。
家康の祖父、松平清康が切り殺された刀が
村正。
家康の父、松平広忠が臣下に切りかかられ傷を受けたのも
村正。
家康の嫡子、徳川信康が切腹に用いたのも
村正。
さらには家康自身も村正作の槍で指を切っている。(この槍は鎧を突き通した為、家康が実検していた。この際に家康は槍を落とし指を切った)
これだけの不運に見舞われた家康は
村正を廃棄してしまったのだ。これにより
村正は徳川家の禁忌となった。
この影響は民衆にも広まる。
たちまち徳川家に仇なす刀は民衆のうわさとなり、いくつもの噂話が生まれた。
このため幕末では維新志士たちがこぞって
村正を求めた。こうして
村正は完全に妖刀としての地位を築いてしまった。
正宗の問題点
『
正宗に銘は無い』とされている。鎌倉幕府に使えていた刀匠正宗は銘を切ることが少なかった。
(貴人に刀を献上するとき、銘を入れないのが礼儀だった為)
また、正宗の刀は傷ついた場合、刀身を短く刷り上げられてしまったものが多い。そのときに銘が消えてしまったのだ。
正宗の刀は豊臣秀吉が天下を取ってから評価が格段に上がった。
豊臣秀吉は正宗の刀がお気に入りだったらしい。
それまで『名工』だった刀匠正宗はこれをきっかけに、知らぬ人がおらぬほどの人気となってしまった。
このため、銘が無い
正宗の刀は贋作が大量に出回ってしまった。